ゴルフが教えてくれたこと(5) 突破口

【この記事は2020-8-23に大西久光ブログに掲載したものを転載しております】

当時のプロゴルフ界の頂点にいた人のお墨付きである。その言葉が突破口になって、私は胸を張ってプロにボールを売った。

電車で69ダースほどのボールを担いで月例競技に出かけ、そこでプロ相手に1ダース2200円の特価で売った。ある程度の確信はあったが、しかしそのお墨付きがこうまで絶大だとは知らなかった。

そしてボールは、意外な速さでほとんどのプロに行き渡った。当時プロは150人ほどだったと記憶しているが、その95%あまりが「ダンロップ65」を買ってくれるようになった。とても今では考えられない出来事だった。それに世間とは実に敏感なものである。それこそ急カーブを描いて一般のゴルファーに受け入れられ、やがてボールが、売れて売れて仕方のない時代に入った。悪い表現だがまさに図に当たったのである。オピニオンの原則と言うべきか。頂点に立つ人が使うものは、大衆も安心して手を差し伸べてくれる。以後10年間、国内におけるダンロップ・ボールのシェアは90%近い数字をはじき出した。

だから寅さん以後、私が東京にいた5年間は結局ボールを売る苦労など、1度もしないままであった。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

ABOUTこの記事をかいた人

1937年2月10日、兵庫県西宮市生まれ
1995年 関西学院大学商学部に入学。大学時代ゴルフ部キャプテンとして関西リーグ戦に優勝。
1959年 関西学院大学を卒業し㈱日本ダンロップ(現:住友ゴム工業㈱)に入社。
ゴルフボールの販売推進を第一歩に、ゴルフ用品の商品開発に従事するなど、ゴルフビジネス一途に専従する。
1973年 ㈱ダンロップスポーツエンタープライズの創設と同時にゼネラルマネージャーとして出向。
1975年 同社取締役就任、1982年 同社常務取締役就任。
1986年 住友ゴム工業㈱及び㈱日本ダンロップに帰属し、スポーツ用品副事業部長。1988年 取締役
スポーツ事業部長。1991年住友ゴム工業㈱常務取締役に就任。
1994年 ㈱ダンロップ スポーツ エンタープライズ代表取締役副社長。
1998年 同社代表取締役社長に就任。
住友ゴム工業およびダンロップスポーツエンタープライズ在籍中、トーナメントディレクターとして約300のプロゴルフトーナメント、テレビマッチやゴルフレッスン番組など約600本を企画運営する。1973年よりテレビ解説を始め、約350本のTVマッチ及びダンロップ
フェニックストーナメントなど約150本以上のトーナメント解説を行う。
ゴルフトーナメント、ゴルフイベントのプロデュースを行う事で、ゴルフコース設計の重要性を認識し、ゴルフ場設計にも関わる。
1999年 住友ゴム工業㈱および㈱ダンロップスポーツエンタープライズを退職退任
㈱ターゲットパートナーを設立し、代表取締役に就任、現在に至る。
現在の主な役職
公益社団法人 ゴルフ緑化促進会 理事長(2007年 就任)
日本ゴルフ関連団体協議会 常任理事(2007年 就任)
NPO法人 日本芝草研究開発機構 副理事長(2008年 就任)
㈱サイプレスクラブ 代表取締役社長(2003年 就任)
南部富士㈱ 取締役(2002年 就任)
ゴールドウイン開発㈱ 顧問(2006年 就任)
ゴールデンバレーゴルフ倶楽部 評議員、理事、キャプテン(2008年 就任)
千刈カンツリー倶楽部 アドバイザー(2014年 就任)
サンコー72カントリークラブ 顧問 (2014年 就任)
魚津国際カントリークラブ 顧問 (2015年 就任)
メモリアルトーナメント・キャプテンズクラブ(USA) メンバー(1985年 就任)
主な著書
Golf World & Nippon(2009年5月)
温故知新(2006年6月)
ゴルフ雑記帖(2000年10月)
青木功の諦めないで自分を変えろ(1998年3月)
ゴルフボール-その飛びの秘密(1986年12月)