ゴルフが教えてくれたこと(4)「よぉ、ダンロップ」

【この記事は2020-8-21に大西久光ブログに掲載したものを転載しております】

ほんとに暑い夏だった。

来る日も来る日も寅さんのもとに通った。

1カ月がとうに過ぎた頃、私は暇つぶしに練習場でボールを打っていると

「よォ、ダンロップ、いいタマ打つじゃないか」という声が聞かれた。

寅さんが立っていた。

「どこで習った」

「大学でゴルフ部でした」

「もっと打てよ」

「いいえ、神様に見られてたら打てません」

と、そんなきっかけから、寅さんと話し合える雰囲気が生まれてきた。

寅さんが「ダンロップ65」を初めて打ってくれた日は、祈りながら見たものだ。十球ほど打ったころ寅さんは、小さな声で「へーぇ…….」と呟いた。

私にはその一言で充分だった。

後日、なにげなく寅さんのバッグをのぞいたら、輸入ボールの中に我が「ダンロップ65」が2,3個入っていた。

その1ヶ月後になる同年秋、オーストラリアで「カナダ・カップ」が開催され、寅さんは日本代表に選ばれた。その遠征直前に「今度のカナダ・カップで使うからな」と言ってくれた。

私は活躍を祈りながら寅さんの帰国を待った。滅多なことでは褒めない人だけに不安が消えない。だが、帰国した寅さんから「大西、なかなかいいボールだ、これならみんなに薦められるよ」と言われたときの記憶は今も鮮明である。

【写真説明】
前列左手が中村寅吉氏
右手が小針春芳氏
後列左が私をダンロップへスカウトしてくれた恩人の大橋貞吉氏。
右手は塩谷先輩、
真ん中が23歳の私、
小針氏は1957年.1960年日本オープン優勝者でロングアイアンの代わりに5番ウッドを使ったプロですが、97才で天国へ行かれました…。

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ABOUTこの記事をかいた人

1937年兵庫県西宮市生まれ
1995年 関西学院大学商学部に入学。大学時代ゴルフ部キャプテンとして関西リーグ戦に優勝。
1959年 関西学院大学を卒業し㈱日本ダンロップ(現:住友ゴム工業㈱)に入社。
ゴルフボールの販売推進を第一歩に、ゴルフ用品の商品開発に従事するなど、ゴルフビジネス一途に専従する。
1973年 ㈱ダンロップスポーツエンタープライズの創設と同時にゼネラルマネージャーとして出向。
1975年 同社取締役就任、1982年 同社常務取締役就任。
1986年 住友ゴム工業㈱及び㈱日本ダンロップに帰属し、スポーツ用品副事業部長。1988年 取締役
スポーツ事業部長。1991年住友ゴム工業㈱常務取締役に就任。
1994年 ㈱ダンロップ スポーツ エンタープライズ代表取締役副社長。
1998年 同社代表取締役社長に就任。
住友ゴム工業およびダンロップスポーツエンタープライズ在籍中、トーナメントディレクターとして約300のプロゴルフトーナメント、テレビマッチやゴルフレッスン番組など約600本を企画運営する。1973年よりテレビ解説を始め、約350本のTVマッチ及びダンロップ
フェニックストーナメントなど約150本以上のトーナメント解説を行う。
ゴルフトーナメント、ゴルフイベントのプロデュースを行う事で、ゴルフコース設計の重要性を認識し、ゴルフ場設計にも関わる。
1999年 住友ゴム工業㈱および㈱ダンロップスポーツエンタープライズを退職退任
㈱ターゲットパートナーを設立し、代表取締役に就任、現在に至る。
現在の主な役職
公益社団法人 ゴルフ緑化促進会 理事長(2007年 就任)
日本ゴルフ関連団体協議会 常任理事(2007年 就任)
NPO法人 日本芝草研究開発機構 副理事長(2008年 就任)
㈱サイプレスクラブ 代表取締役社長(2003年 就任)
南部富士㈱ 取締役(2002年 就任)
ゴールドウイン開発㈱ 顧問(2006年 就任)
ゴールデンバレーゴルフ倶楽部 評議員、理事、キャプテン(2008年 就任)
千刈カンツリー倶楽部 アドバイザー(2014年 就任)
サンコー72カントリークラブ 顧問 (2014年 就任)
魚津国際カントリークラブ 顧問 (2015年 就任)
メモリアルトーナメント・キャプテンズクラブ(USA) メンバー(1985年 就任)
主な著書
Golf World & Nippon(2009年5月)
温故知新(2006年6月)
ゴルフ雑記帖(2000年10月)
青木功の諦めないで自分を変えろ(1998年3月)
ゴルフボール-その飛びの秘密(1986年12月)