今年度、日本プロゴルフ殿堂入りする6人が決まりました。今年で第5回目を迎えた日本プロゴルフ殿堂の顕彰者には、プレーヤー部門(主に1973年以降に活躍、功績を残した人)に日本タイトル4冠の「年間グランドスラム」を、ただ一人達成した村上隆氏(72)、国内69勝、賞金女王7回の台湾出身、ト阿玉さん(62)、日本ゴルフツアー機構で初代会長を務めた故・島田幸作氏の3人。レジェンド部門(主に72年以前、男子ツアー制度施行前)では台湾プロの草分けで戦前から活躍した故・陳清水氏、70年にマスターズ12位、国内16勝の故・河野高明氏、日本女子プロ協会元会長の清元登子さん(77)の3人が選ばれました。表彰式典は、3月24日(金)、「ジャパンゴルフフェアー」会場内のパシフィコ横浜で行われます。
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世界ゴルフ殿堂にならって、日本プロゴルフ界も遅まきながら2010年、日本プロゴルフ協会、日本女子プロゴルフ協会、日本ゴルフツアー機構の3団体が一体となって「日本プロゴルフ殿堂」(松井功理事長)が設立されました(顕彰は12年度から)。今年は数えて第5回目の顕彰。過去20人が顕彰されていますが、今年は新たに6人の名プレーヤーが加わりました。
中でも、プレーヤー部門で選ばれた村上隆の全盛時代は凄みがありました。日本でただ一人の「年間グランドスラム(4勝)」を達成したのは75年。この年に創設された5月の日本マッチプレー(神奈川・戸塚)を制して初めての日本タイトルを獲り勢いに乗りました。9月の日本オープン(愛知・春日井)は最終日に66を出して逆転優勝。10月の日本プロ(岡山・倉敷)ではプレーオフの末に3勝目。迎えた年間最後のメジャー、日本シリーズ。当時は前半2日を大阪よみうり、後半2日を東京よみうりで開催していましたが、「特にショットの正確さが求められる(トリッキーな)大阪よみうりでは、プレシャーを感じたのを覚えている」(村上プロ)と振り返っていますが、10年間所属した知り尽くした東京よみうりコースでは、得意のショートアイアンとパットの冴えをみせてスコアを伸ばし、前人未到の同一年日本タイトル4冠を成し遂げたのです。初の賞金王にも輝きました。
長打力はさほどではなかったですが、持ち味のショートプレーをフルに生かしたゴルフスタイルは、観る者に強烈なインパクトを与えました。海外でも好成績を収め、77年のハワイアンオープンでは、米ツアーの当時日本人最高の2位に食い込んだこともあります。
静岡・伊東市出身。中学時代、キャディーでゴルフを覚え、卒業後は近くの川奈ホテルGCで杉本英世プロに弟子入りして腕を磨き、63年のプロテストに合格して国内21勝。ワールドカップにも3回(72年、75年、76年)日本代表になっています。現在は第一線を退き、生まれ育った静岡・伊東市で悠々自適の生活を送っています。
女子では、なんといっても7回の賞金女王に輝き″ト阿玉時代”を築き、一世を風靡した台湾娘が特筆されます。アマチュア時代から日本女子ツアーに出場していたト阿玉は、今回殿堂入りした清元登子がアマチュア優勝したトヨトミレディス(73年)では2位に入っています。74年にプロ転向、日本の女子ツアーに参戦しましたが、同年の東海クラシックで早々と初優勝。長身からロングドライブを飛ばし、台湾で修業を積んだ小技と勝負強さで日本女子ツアーのトッププレーヤーにのし上がりました。76年には米ツアーにも挑戦し、ルーキー・オブ・ザ・イヤー(新人王)に選ばれています。国内では82年から5年連続、8年間では6回の賞金女王を″独占”し、この間の年間優勝は9、9、7、7、9、1、2、5勝。まさに圧倒的、無敵の強さを発揮しました。最終日には上下ピンク色のウエアをまとったことから「ピンクパーサー」のニックネームで知られ、まさにピンク旋風をまき散らしました。
90年代前半に右大腿部つけ根を痛め、やや低迷しましたが、02年には再春館レディスで9年ぶり、47歳での復活優勝。日本ツアー通算「71勝」とし、樋口久子の国内最多勝「72」にあと1と迫る大記録を残しました。現在男女を通じただ一人の外国人永久シード選手。テレサ・ルーら台湾出身の後輩選手らの精神的支柱となり、先駆者としてアドバイスも送っていますが、日本ゴルフ殿堂入りにはふさわしい外国人選手といえます。
ト阿玉プロは殿堂入りについて喜びを語っています。
「殿堂入りの栄誉をいただき、心より嬉しくまた感謝の念でいっぱいです。いままで私を支え応援してくださった人々、支援してくださった「ミズノ」のおかげと思っています。17歳で淡水ゴルフクラブ(台湾)に入り、陳金獅先生に師事して鍛錬を重ねました。81年に日本女子プロ協会のプロ資格を得て、日本を主戦場として戦ってきました。嬉しかった思い出もたくさんあります。でも92年から股関節痛に悩まされ、日常生活にも支障をきたすくらい苦しい日々も経験しました。でもきっと治ると信じて日々トレーニングを重ね、9年ぶりに復活優勝(再春館)出来たときは本当に夢のようでした。ケガに苦しむ人に「あきらめないで」と伝えたい思います。これからは少しでもゴルフ界に恩返しできたら、と思っています」
このほか、熊本出身でアマチュア界に君臨。73年のプロツアー「トヨトミレディス」で女子ツアー史上初めてアマチュア選手として優勝した功績が輝く清元登子さん。74年にプリ入り。3年間は米国でもプレーし、プロとしては優勝7回。78年の日本女子オープンでは樋口久子とのプレーオフを制して優勝しています。44歳で現役を退き、日本女子プロゴルフ協会の理事長を2年間歴任。指導者としても成果をあげ、不動裕理、大山志保、古閑美保らの教え子を賞金女王に導きました。現在は協会を退会し、協会顧問を務めています。
また、兵庫県出身でプロ入り同期の青木功らと優勝争いを演じ、関西オープン、関西プロ、76年には日本オープンを制するなど公式戦タイトルを連取した勝負師・島田幸作氏。99年に設立された日本ゴルフツアー機構の初代会長(当時はチェアマン)に就任。ツアーの混迷期を引っ張った功績は大きいものがあります。08年、会長を退き名誉会長となりましたが、その8ヵ月後、新時代のシンボルともいえる石川遼が、プロ初勝利を飾った翌日にがんのため死去しました。64歳でした。
神奈川出身で保土ヶ谷CCで修業を積んだ故・河野高明さん。19歳でプロとなり関東オープン(67年)や、68年には日本オープンと日本シリーズを相次いで制覇しました。海外での活躍もめざましく、69年にマスターズ初出場、アジア勢最高位の13位。翌70年には連続出場したマスターズで12位とさらに順位を上げて話題となりました。160㌢の小さな体で奮闘する姿から「リトルコーノ」と絶賛されたのは、記憶に新しいところです。5年連続で日本代表となったワールドカップでも2位の好成績を収めるなど、日本を代表する存在でした。国内16勝。同時代に活躍した杉本英世、安田春雄とともに「和製ビッグ3」といわれプロゴルフ人気を高めた一人でした。
★日本プロゴルフ殿堂
2012年に顕彰がスタート。レジェンド部門とプレーヤー部門に分かれる。
≪主な顕彰基準≫
①表彰年度で満45歳以上であること(LPGAはこの限りではない)。
②PGA会員、LPGA会員、JGTO会員として通算在籍10年以上。
③上記を満たし、かつ年間賞金ランク1位、メジャー競技複数回優勝。
④男女ツアー競技通算25勝以上。
⑤海外メジャー1勝以上。
⑥海外ツアー3勝以上。
⑦世界ゴルフ殿堂入りしたもの。
など計13項目のいずれかの条件を満たす必要がある。
☆ これまで20人(他に特別賞1人)が顕彰されており、今回で計26人が殿堂入りする。
【この記事は2017-2-13 ゴルフ会員権売買の老舗 (株)桜ゴルフ『児島宏のグリーン見聞記』に掲載したものを転載しております】
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