【この記事は2020-9-15,16,20に大西久光ブログに掲載したものを転載しております】
昭和30年と言えば日本のゴルフ界にかすかな曙光が差しかけた時代だった。戦後の食糧難からようやく立ち直り、ほんの少し働き蜂たちにもレジャーらしいことが始まっていた。
それでもゴルフなどほとんど知られてはいなかったのだが、確実にブームの下地は出来つつあった。戦後米軍に接収されていたゴルフ場が次々に民間に返還され、それを待ち望んでいた戦前派ゴルファーも少なくなかったのだ。
高校時代、すでに激しい受験戦争が始まっていて、私もまたその渦に巻き込まれていた。そしてこの年、関西学院大学に入学。解放感に満たされた青春の中にあった。
大学に入ったら何かスポーツに熱中してみたいと考えていた私は、アマチュアレスリング部に入部することにした。
戦時中に小学校時代を過ごした私は疎開先で毎日野良仕事を手伝っていたために腕力や足腰には自信があった。身体は167cm54kgと小さかったのだが、クラス別のレスリングなら、自分の身体が活かせると思っての選択だった。
だが、入部してしまってから父親からの猛烈な反対にあった。父はアマチュアレスリングをプロレスと勘違いしていたようで、何故かひたすらゴルフをするように勧める。
私は「ゴルフのようなブルジョアスポーツは嫌いだ。第一お金がかかりすぎる」と拒否するのだが、少しもひかない。
「ゴルフは精神修業に1番良い。それに社会に出てからも必ず役に立つ。お金がかかるのなら、なんとかしてやるからゴルフをやれ」
その一点張りなのだ。
なにしろ執拗な説得だった。そしてとうとう母や親戚の反対を押し切ってまで私にゴルフを選ばせてしまった。
だが、私にとってはどうも納得が行かなかった。それまではゴルフはお金のかかる老人のレジャーだと思いこんでいたし、何故ゴルフが精神修業に良いのか、とても理解できなかった。
父にしても、当時ゴルフを始めてから2年目、ハンデも22くらいのアベレージゴルファーであって、ゴルフの良さを極めたわけではなかった。
だが父は、ゴルフと私とを結びつけることの意義に確信を抱いていたに違いない。
今、振り返ってみれば、あの時の父の説得がなければ、私の人生は全く違っていただろうし、それを思うと今さらながら父に感謝するのである。
アマチュアレスリング部に入部して1週間目、早々に私は退部届けを出してゴルフ部に入った。当時、ゴルフ部などある大学は数えるほどしかなかった。関西学院でも、私が入部した年にちょうど同好会から運動部に昇格したばかりで、ゴルフ部第1期生として入部することになった。
そうして私は半信半疑のうちにゴルフを始めた。
だが、ゴルフの素晴らしさに魅せられて、それに没頭してしまうようになるまで、さして時間はかからなかった。大学生活の4年間、それこそゴルフ、ゴルフの毎日だった。関西学院卒業というより、ゴルフ部卒業と言った方が適切な生活だった。だが、ゴルフは私に学問よりさらに大切なことを教えてくれた。
ゴルフを始めて何年か経ったある日、母親がつくづく私にこう言った。
「お前はゴルフで本当に性格が変わったね。ゴルフをやってよかったね」
そのときの母の嬉しそうな顔は未だに脳裏に焼きついている。
私は両親が結婚して10年目にやっと生まれた子供だった。
それだけに、何不自由ない恵まれた環境の中で、両親に可愛がられながら育った。そうした子供にありがちなわがままで短気な性格がなかなか抜けなかった。
学校に提出する通知書の性格の欄に「短気」と書くほど酷いものだった。だが、ゴルフを始めて、私の性格は矯正された。自分自身でさえ気付くほど、急速に私の性格は変わっていった。
そのとき初めて、父の言葉の意味が判った。なぜ父があれほど強く私にゴルフをやらせようとしたのか、ゴルフにとりつかれてみて初めて理解できた。その日の母の笑顔が、私がゴルフ界を歩み続けるひとつの大きなきっかけだったと思う。
ゴルフというスポーツの素晴らしさに自分の人生が変わることをほんの少し実感していた。
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