故 佐藤棟良氏を偲ぶ

【この記事は2015-06-16に大西久光ブログに掲載したものを転載しております】

6月5日、私の恩人であり、ゴルフ界の恩人である佐藤棟良氏が96才で永眠されました。

思い返せば1974年、日本のゴルフ界を国際化したいと企画した「ダンロップフェニックス」が実現できたのは、佐藤氏の「宮崎を世界の宮崎へ」という一言でした。

「ジャック・ニクラウスを招聘します」という突拍子もない提案を力強い一言とともに引き受けて下さった佐藤氏。

脂の乗り切った34才で「ゴルフの帝王」と呼ばれていたニクラウス宅にしかも「私のシーズンは10月で終わる」と言っていたにも関わらず無理やり連れてこれたのも佐藤氏の熱意に支えられたからでした。

こうして実現した「ダンロップフェニックストーナメント」に、ニクラウスが旅費だけで来日し、そのことを知ったスーパースター達が次々と対応してくれるようになり、1974年ジョニー・ミラー、1977年バレステロス、1980年トム・ワトソンなどスーパースターの優勝に沸いたのです。

その後、彼らの活躍に刺激された青木功が「米国に行って賞金を取り返してくる」と頻繁に海外遠征へ行くようになり、それが1980年全米オープン2位などに繋がりました。

近年ではタイガー・ウッズの優勝など日本ゴルフ界に刺激を与えてきたのも佐藤氏の大英断があったからこそだと、感謝の気持で一杯です。

また、現在の男子プロゴルフは情けない状況になっているとは言うものの、2014年優勝の松山英樹がニクラウスの主催する2014メモリアルに優勝するなど日本の期待に応えてくれています。

小柄な佐藤氏の大きな夢が、日本のゴルフに根付いている証ですね。

ABOUTこの記事をかいた人

1937年兵庫県西宮市生まれ
1995年 関西学院大学商学部に入学。大学時代ゴルフ部キャプテンとして関西リーグ戦に優勝。
1959年 関西学院大学を卒業し㈱日本ダンロップ(現:住友ゴム工業㈱)に入社。
ゴルフボールの販売推進を第一歩に、ゴルフ用品の商品開発に従事するなど、ゴルフビジネス一途に専従する。
1973年 ㈱ダンロップスポーツエンタープライズの創設と同時にゼネラルマネージャーとして出向。
1975年 同社取締役就任、1982年 同社常務取締役就任。
1986年 住友ゴム工業㈱及び㈱日本ダンロップに帰属し、スポーツ用品副事業部長。1988年 取締役
スポーツ事業部長。1991年住友ゴム工業㈱常務取締役に就任。
1994年 ㈱ダンロップ スポーツ エンタープライズ代表取締役副社長。
1998年 同社代表取締役社長に就任。
住友ゴム工業およびダンロップスポーツエンタープライズ在籍中、トーナメントディレクターとして約300のプロゴルフトーナメント、テレビマッチやゴルフレッスン番組など約600本を企画運営する。1973年よりテレビ解説を始め、約350本のTVマッチ及びダンロップ
フェニックストーナメントなど約150本以上のトーナメント解説を行う。
ゴルフトーナメント、ゴルフイベントのプロデュースを行う事で、ゴルフコース設計の重要性を認識し、ゴルフ場設計にも関わる。
1999年 住友ゴム工業㈱および㈱ダンロップスポーツエンタープライズを退職退任
㈱ターゲットパートナーを設立し、代表取締役に就任、現在に至る。
現在の主な役職
公益社団法人 ゴルフ緑化促進会 理事長(2007年 就任)
日本ゴルフ関連団体協議会 常任理事(2007年 就任)
NPO法人 日本芝草研究開発機構 副理事長(2008年 就任)
㈱サイプレスクラブ 代表取締役社長(2003年 就任)
南部富士㈱ 取締役(2002年 就任)
ゴールドウイン開発㈱ 顧問(2006年 就任)
ゴールデンバレーゴルフ倶楽部 評議員、理事、キャプテン(2008年 就任)
千刈カンツリー倶楽部 アドバイザー(2014年 就任)
サンコー72カントリークラブ 顧問 (2014年 就任)
魚津国際カントリークラブ 顧問 (2015年 就任)
メモリアルトーナメント・キャプテンズクラブ(USA) メンバー(1985年 就任)
主な著書
Golf World & Nippon(2009年5月)
温故知新(2006年6月)
ゴルフ雑記帖(2000年10月)
青木功の諦めないで自分を変えろ(1998年3月)
ゴルフボール-その飛びの秘密(1986年12月)