日本も最初は1グリーンであった事実を今改めて考えたい 日本ゴルフジャーナリスト協会 ~菅野 徳雄~

1932年に駒沢から朝霞に移転した東京ゴルフ倶楽部はフェアウエイもラフもグリーンもすべて常緑の西洋芝だったそうです。グリーンはベントグラスの1(シングル)グリーンでしたが、散水設備が完備しておらず、水不足のため翌年には全滅してしまったそうです。31年にオープンした相模カントリー倶楽部も当初ベントの1グリーンであったのが、やはり失敗して高麗グリーンにかえて、同時に予備グリーンを増設したということです。
ベントグラスは常緑の西洋芝であり、寒冷地に適した芝なので、北海道など一部を除くと高温多湿の日本の夏を乗り切ることは無理だったようです。したがって戦前にできた日本のコースはほとんどが高麗の1グリーンであったわけですが、本当は欧米のようにベントの1グリーンにしたいという気持ちは当時の人たちも強かったと思います。
欧米でゴルフをやっていた人たちが日本のゴルフ場造りをリードしてきたわけですから、初めから2(ダブル)グリーンにしようという発想はなかったはずです。本当はベントの1グリーンにしたいのだが、日本の気候には向かないということで、仕方なく高麗の1グリーンにせざるをえなかったと思います。
それが戦後もだいぶたってベントグラスが導入されるようになり、ベントと高麗の2グリーンのコースが当たり前のようになって思えば、2グリーンにするよりは高麗でもいいから1グリーンのほうがよかったと思います。
80年代になると「サンドグリーン」といって、幾層もの粒子の違った砂でグリーンの床どこを造る技術が導入され、日本のどこでもベントの1グリーンが造れるようになりました。その結果、新設コースはベントの1グリーンを採用し、2グリーンを1グリーンに改造するコースも増えてきているようです。
しかし、1グリーンだからといって手放しで喜んでいるわけにはいきません。二つのグリーンをくっつけて一つにし、フェアウエイをグリーンにしたという感じであったり、従来の高麗グリーンをつぶしてベントグリーンだけを残したような1グリーンも少なくありません。
横浜カントリークラブが東西36ホールを4年がかりで全部1グリーンにするということです。東コースのインコースの改造がすでに終わりましたが、佐藤謙太郎氏が設計を担当、グリーンの50ヤードぐらい手前から全部造り直し、2グリーン時代の面影はまったく残っていません。 あるベテランプロがプレーをして、「これじゃ、前のコースはグリーンフィーを貰えないのではないか」といったそうです。そのくらい新しい1グリーンは戦略性の高いコースに生まれ変わったというのです。トッププロを屈服させるような1グリーンを造ってもらいたいものです。

〈プロフィール〉
菅野 徳雄(かんの のりお)
1938年生まれ。立教大学卒業。分かりやすい技術論と辛口の評論で知られる。著作に「トッププロのここを学べ」「即修ゴルフ上達塾」ほか、多数。日本ゴルフジャーナリスト協会副会長。