From Member’s Voice
当協会を含めたゴルフ関連15団体が「ゴルフをみんなのスポーツへ」という共同アピールをもとに、今年活動を行っている。そこで今回は当協会会員の方々にどうすればみんなのスポーツになるのかを提言してもらった。
「みんなとは、そもそも誰か」
片山哲郎
ゴルフをみんなのスポーツへというフレーズを聞いた時、それだけで分かったような気になってしまうのは何故だろう。大衆、国民、市民、消費者…。みんなという語感にはそんな漠然としたイメージがあり、だから逆に救われる。その救いは無責任に広がり、ゴルフの美点を一方的に解決したと早合点する。
自らを含めた個々の主体を俯瞰すれば、そもそも「みんな」などという存在はあり得ない。年齢、収入、性別、志向、地域性といった表層の分類をしたところで、どこまで日本流ゴルフのモチベーションを探れるかは疑問である。ゴルフにそれほど真剣ではなく、しかし真面目にサラリーマン生活を営んでいる友人いわく、「俺にとってゴルフとは、あってもなくてもいいものだ」という。つまり、あってもなくてもいいものを、みんなのものにしなければならない根拠の脆弱さこそが問題なのだ。最近発刊された「レジャー白書99」に、日本人の行き方は様々なパターンに分類されるとある。第一に自分に勝つことが最も大切だとする「努力・克己志向」、第二に互助や奉仕が大切とする「協同・奉仕志向」、第三に安らかな気持ちで暮らしたいという「安楽・受容志向」、第四は過度の欲望を避けて秩序ある生活を望む「中庸・達観志向」など。
人生に於ける目的の多岐か、多様化はお仕着せの規範を拒絶し、各々勝手な主義主張を通そうとする。その放射が「みんな」であり、これに対応しようとするならば、ゴルフこそ細胞分裂を遂げねばならない。
ゴルフ用品市場の胎動の一つに、中古市場の活況がある。これまでゴルフ専門店が片手間で行っていたマーケットにゲームソフト販売2社が参入して火が点いた。1社は3年以内に年商300億円を上げ、もう1社は2年後に100億円を目標とする。聞けば、一般ゴルファーがコンペ商品で得た新品クラブを持ち込んで換金することも多いというが、これ、アマ資格喪失にあたる。それがおおっぴらにビジネスとして成り立つことにゴルフ業界はどう対応できるのか、また、できないのか。要するに多様性を認めることは何かを切り崩されることと同義なのだ。
ゴルフ界が守ろうとすることの多くは、自らの都合に根差している。ストロークプレーへの執着、スルーへの制約、メタルスパイク排除の動きや超尺クラブを受け付けない練習場…。挙げ句、女性ゴルファー誘致を謳いながら「ノースリーブ禁止」を揚げる愚等々。ゴルフの懐古趣味を歪曲し、いつの間にか都合良くシステム化された明細書を見れば諸経費など、臆面もない。まずはこれらを壊すこと。壊した上で「みんな」にお伺いを立てるべきだ、と思う。
ゴルフ人口1100万人強。最大の活動率を誇る50代ゴルファーは約280万人で、毎年30万人がリタイア対象となる。ゴルフ、カラオケ、麻雀が三種の神器であり、ゴルファーであるが故に上質な消費者とされたこの世代が退場すると、いよいよゴルフは豊富な物に囲まれ選択することに慣れた消費者と対時する。一杯飲屋と練習場、ボールとネクタイ、ゲーム業界とジュニア育成。ゴルフの価値が衆目に晒されることとなる。
しかし、それこそ望むところだ。昨年度の余暇市場80兆円のうち、スポーツ部門最大のゴルフは2兆2500億円ながら余暇支出全体の2・8%に過ぎない。産業としてのゴルフ興隆を考えれば歓楽街への対抗手段、ゲーム業界にどう勝つか、また、理念としてゴルフの美徳を啓蒙するなら脱ハウ・ツー・ヒットのティーチングなど再構築の余地はふんだんにある。大切なのは業界が「みんな」を包含するのではなく、個々の施策を洗うことではないか。美容とゴルフ、登校拒否とゴルフ、上手な接待ゴルフのススメなる本が今、あってもいい。