【この記事は2018-06-22に大西久光ブログに掲載したものを転載しております】
私にとっても日本ゴルフ界にとっても恩人のピーター・トムソン氏が6月18日88歳で永眠された。
トムソンは全英オープンで素晴らしい活躍を重ね、エリザベス女王から「サー」の称号を与えられたことでも有名だが、その全英での活躍を振り返ってみよう。
1954,55,56,58,65年と、5回の優勝だけではなく、1952,53,57年には2位だったので、いかに全英に強い選手だったかがわかる。特にゴルフ発祥のコース・セントアンドリュースで強かったことでもよく知られている。
1961年アジアサーキットの日本大会「よみうりプロ」に参加のため、来日した時に、英国ダンロップの大切な契約プロだったので、日本ダンロップへ「トムソンの世話をしてほしい」と連絡があり、私が担当になったのが彼との初対面だった。
それ以来、彼からゴルフのすべてを教えてもらったと言っても過言ではない。「スコットランドでいかにゴルフが始まったか?」の歴史なども。
初めてダンロップトーナメントを始めた時には参加してくれただけでなく、大会についてのアドバイスをもらった。
ゴルフプレーが優れているだけでなく、頭脳の良さからくるインテリジェンスも、他の選手にないものを持っていた。
日本でも1969年、72年中日クラウンズなどで優勝したが、開催コースの名古屋GCについて、「グリーンが小さいからピンを狙わず、真ん中少し手前に乗せれば、全てバーディーチャンスだ」とアドバイスしていた。
その後、活躍したデビット・グラハム、グラハム・マーシュ、グレッグ・ノーマンを日本に連れてきたのもトムソンだが、後輩だけでなく、当時新人の杉本英世プロなど日本選手をアジアへ連れ出してくれたのも彼だった。
1984年9月55才になり、米国シニアツアーに参加して、同い年のアーノルド・パーマーや強豪ビリー・キャスパーを破り、85年10月までに11勝して、シニア賞金王になった。当時、ダンロップの堅い2ピースボールを使っていたが、新開発のボールを渡してテストをお願いしたところ「これはダメだ」とのこと。理由は「ドライバーの飛距離でもなくアイアンのスピンでもなく、パットでよく入るかどうか」とのことで唖然としたことを思い出す。
ボールの品質をパッティングの是非でコメントするプロとは一人も出会ったことがなかったから。
日本オープンでスコアを提出しながら「ピンポジションがおかしい」と発言し、競技委員から「みんな同じピンでプレーしているのに」と激しく反撃されたこともある。先日の全米オープンでもピンポジションが大きな話題になっていた。選手の技量によって、攻めきれるかどうか?が良いピンかどうかという事になるからである。今も「みんな同じじゃないか?」と反論する人がいるが、彼の指摘は50年も前だから、理解されなかったのも仕方がないかもしれない。
彼はプレーするだけでなく、コース設計にも力を入れていた。日本でも数コースの設計をしたが、岩手の南部富士CCの設計をお願いしたので、その時に設計の勉強をさせてもらった。
彼が日本の大会に参加していた頃、海外の有名選手はみんなギャラや旅費をもらっての参加だったが、彼は「賞金で戦うのがフェアーだ」と言って、一度も経費を受け取らなかった。彼が日本の大会に参加し、残した功績を評価する人は少ないが、日本ゴルフの初期の活性化に貢献してくれたことに深い感謝の気持ちを持っている。
彼のゴルフ思想がいつまでも生き続くこと、トムソンの安らかな眠りをお祈りするばかりだ。
コメントを残す