敢えて二分論で

「あなたは、ゴルフ用品のことを書く出版社をなさっているから、そんな聞き方をしますけどね。要するに文化も産業もそうですが、普及・振興の結果において発展するわけで、別に対峙しているとは思いませんね。我々はどちらか一方ということではなく、ゴルフそのものに力を入れているわけだから」

以前、日本ゴルフ協会の安西孝之会長(当時)に取材をしたとき、こんなコメントが返ってきた。質問の主旨はこうだった。JGAはゴルフ文化の本陣という位置づけですが、このような体質は時として、ゴルフ産業との対峙を招きます。高反発ドライバーの規制が最たる例で、クラブメーカーは高反発禁止によって疲弊しており、怨嗟の声も聞かれます――。これに対して安西会長は、産業と文化、どちらか一方に加担しているわけではないと答えたものだ。

R&Aが高反発ドライバーをルール違反としたのは2008年1月だった。その際、R&Aが主張したことは「ゴルフの上達は、過度に用具の進歩に頼ってはならない。上達は自己研鑽によって成されるべきである」というものだった。つまり、高反発禁止の背景には、R&A流の「ゴルフ道」ともいえる頑固な文化的立場があり、高反発ドライバーはゴルファーの自己研鑽をスポイルさせる「過度な進歩」、あるいは文化と対峙するゴルフ産業の象徴として取り上げられた。高反発禁止が施行された同年は、秋にリーマンショックが起きており、負の相乗効果でゴルフ用品市場は奈落の底へ突き落された。その恨みもあり、市場関係者の一部はR&AとJGAの決断を激しく憎んだ。「ごく一部のゴルフエリートが大事なことを独善的に決める。ゴルフ界はもっと開かれた議論の場をもち、9割以上のアベレージゴルファーの声に耳を傾けるべき」――。ゴルフ文化論とゴルフ産業論の対決は、独善主義と民主主義の対立にも似て、その矢面にJGAが立たされた印象もある。

そんな諸々の当方の意図を、安西会長は承知していた。「我々は(産業と文化の)どちらか一方ということではなく、ゴルフそのものに力を入れている」というコメントには続きがあって、ゴルフそのものの幹が太くなれば、文化や産業の枝ぶりもよくなる、つまり「大元」に力を入れることが大事、という趣旨だった。

産業論者と文化論者

私は、自分自身をゴルフ産業論者だと思っている。むろん、当JGJAには様々な価値観の記者がおり、ゴルフ文化論者も当然いる。その基本認識は、過度に市場規模が拡大するとゴルフ文化を理解しないプレーヤーが激増し、ゴルフ本来の良さが損なわれるため、無理に広げる必要はない、というものだ。一方、ゴルフ用品の専門誌を生業としている私は、ゴルフ人口の増加、これによる市場の活性化が不可欠と考えているため、高反発ドライバーの是非についても、年老いたゴルファーからこれを取り上げるとゴルフリタイアが加速して、関連企業が疲弊する。だから高反発容認派、もっといえば推進派ともいえる立場で主張してきた。

私は、人生至高の喜びは健康で長生きを楽しむことだと思っており、ゴルフはこれに寄与できる「善」なる活動だと考えている。その善なる産業が発展するためには、一人でも多くのゴルファーを創造することが必要である。長くゴルフに親しんできたご老人が、「ゴルフの上達は自己研鑽」などというゴルフ道の自己愛で、楽に飛ばせる魔法の杖を取り上げられてはならない。とまあ、そんな風に考えて、勝手に「推進派」を担ってはゴルフ産業論者の立場で書いてきた。その際、文化と産業の対決構図を殊更に強調したフシもある。

しかし、敢えて本音を白状すると、産業論と文化論、そんな「二分法」できれいに分けられるほど物事は単純ではないとも思っている。

そもそも「ゴルフ」という作業を冷静に眺めてみると、棒のような物で球をひっぱたき、穴に転がし入れるだけの行為である。ただそれだけの行為をみれば、ゴルフをしないひとにとっては何が面白いのかわからない。だけど、ここに文化的な価値をみつけるとその魅力に引き寄せられる。たとえば「全英オープン」で苦行に耐える選手が崇高にみえたり、かなりレベルを下げて我が身に置き換えても、眼前の池に怖じることなく放った一発がきれいな円弧で青空をゆくと、胴震いがするほど感動的だ。

以前、ゴルフ場設計家の加藤俊輔さんにこんな話を聞いたことがある。「ゴルフ場には借景という『額縁』が大事なんだ。かなたの青空、遠くの山並み、迫りくる森林。そしてゴルフ場の木々、ラフ、フェアウェイ・・・。フェアウェイの周囲には額縁が何段階も用意されて、輪郭をそれぞれシメルわけです。それが大事」――。そのような高尚な額縁の上で、球をひっぱたき、曲げ、池に入れては地団太を踏む。アマゴルファーとしても一流だったクラブ設計家の竹林隆光さんは、「ゴルフはね、自虐を愛せないと上手くなれない。そもそも自虐を愛する行為なんです」――。中部銀次郎さんに、ゴルフが上手くなるにはどうしたらいいですかと無防備に聞いたこともある。すると中部さんは居酒屋のカウンター席から立ち上がり、背後の壁に頭をつけてパッティングストロークを数回した。そして振り返り「あなたはコレを、気がおかしくなるまで続けられますか」――。

そろそろ、手に負えなくなってきた。つまり「ゴルフ」は、それ自体がきわめて純度の高い文化であり、その一部を担うクラブの反発性能だけを取り上げて、文化と産業の対峙などと論じるのは、滑稽な話にすぎなくなる。

だけど・・・・、と思う。文化的な立場に執着しすぎると、懐古趣味や排他性が台頭して産業が縮小する。産業的な立場を主張しすぎると、シェア主義や合理主義が幅を利かせ、激越な価格競争に陥ってしまう。また、需要を優先した高反発ドライバーは、規則に従わない前例をつくった。以後、需要(産業)か規則遵守(文化)かというテーマについて、ゴルフ用品業界は真っ二つに割れてしまい、是非論が決着しないまま7年が過ぎた。というか、そもそも是非が結論する問題ではないのである。

一連の経緯から思うことがある。文化的立場にせよ、産業的立場にせよ、あるいはその中庸だとしても、確固たる思想をもたなければ企業としても業界人としても、存在価値が脆弱になる。強固な存在感を発揮するには、ゴルフ界に携わる者がひとつの課題について談論風発する習慣をつけ、それによって意志・思想を固めることが大事ではないか。その際、敢えて二分論でやることで、問題の核心が浮き彫りになると思う。その蓄積が、独善的ではなく、ゴルフ界全員参加の再興へとつながるはずだ。

ただそれだけを言いたくて、駄文を重ねてみた。ご清聴、ありがとうございました。(片山哲郎)

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1962年生まれ、東京都出身。「月刊ゴルフ用品界」(GEW)を発行する株式会社ゴルフ用品界社の代表取締役社長兼編集長として、ゴルフ用品産業及びゴルフ界全般の動向を取材、執筆。2014年4月から3期6年、日本ゴルフジャーナリスト協会会長(現顧問)。ほかにインタラクティービ(J:COM)番組審議会委員(現任)、ゴルフ市場活性化委員会マーケティング委員(現任)、大学ゴルフ授業研究会理事(現任)。信条は「人の至福は健康で長生きすることであり、これに寄与できるゴルフは『善』である。善なるゴルフ産業が健全発展するために、建設的な批判精神をもち、正確、迅速、考察、提言を込めた記事を書く」――。