1995年のダイキンオーキッド阪神大震災から10年 ゴルフ記者の揺れ動く心の戦い ~甲斐 誠三~

震災の悪夢

正月から飲みつづけた祝い酒にも飽きて、そろそろ本格的に仕事に戻るころだった。

1995年1月17日早朝。冬の朝は、まだほの暗かった。一階の寝室で、私はぼんやりと目覚めていた。テレビをつけニュースを見ていた。武庫川近くの西宮の一角だった。

午前5時46分、近くに航空機でも墜落したのかと思った。轟音とともに床下から突き上げが起こり、今度は激しい横揺れ。「地震だ」厚い冬布団を頭から被った。いつもならすぐに収まるのだが、今回は長くて強い。20インチのテレビ、洋服ダンス、本箱などが、轟音とともに布団の上に落ちてきた。

とはいえ、わずか数十秒。次第に収まり、我に返った時、「ああ生きている」と思った。いろんな荷物を跳ね除けもぐり出た。幸いに怪我もしていなかった。家人も無事で、玄関に出た。ドアは5メートル先の門柱まで飛んで絡まっていた。ぽっかり空いた玄関を出て門をこじ開けて道に出た。プーンとガスの臭い。隣り近所から「助けてくれ」という悲鳴があちこちから聞こえる。寝巻きにつっかけで立ちすくんだ。満月の残月が西の空で異様な赤い色で浮かんでいた。この世の地獄、阿鼻叫喚を見た。

自宅は「全壊」と判定された。壁は落ち、家具は総て散乱、箪笥、テレビは数十メートルも移動していた。玄関脇の通し柱は折れていた。まだ立っていたが、いつ崩壊してもおかしくないと後に判定された。町内では、若者達が助けを求める被害者宅の屋根に登りスコップなどで掘り起こし、数人を助けた。消防も警察も行政も、もっとひどいところへ行ったのだろう。当初の救助活動は近所助け合いだった。日本人もいざとなれば捨てたものではない。若者中心に懸命の救助活動が続いた。しかしこの一瞬で町内で六人が犠牲となった。

電気が切れたので情報がない。ラジオを捜して聞くと、阪神に震度7以上の地震だという。淡路、明石、神戸、芦屋、西宮と広範囲だったが、被害の数字はすぐにはでてこなかった。

広範囲にわたる地震の被害状況を知り

当初は自宅付近が一番ひどいと思った。こんな大地震が広範囲に起こったと推測できなかった。この日、神戸のダンロップ本社で当時の大西久光常務と会見の約束をしていた。キャンセルするために電話した。するとつながるではないか。同じ西宮市内だったが大西家の家人の話では「本社が火事」だと通報を受け、すでに大西常務は出て行ったという。「こりゃ大変だ。普通の地震じゃない。英国ダンロップ極東工場からの歴史を誇る工場が燃えている―」と愕然とした。

三宮駅前にあった神戸新聞会館二階のデイリースポーツ運動部デスクに電話した。電話はこのあと不通になったが、奇跡的にこの二本は通じた。若いデスクが出てきて本社はいつ崩壊するかわからない状態だという。入館禁止だか、現在、資料の搬出に全力をあげている。社員の被害状況の調べもしている。今日の新聞はなんとしても出す方向で幹部会が召集されている。被害者だからとりあえず自宅待機してくださいという。「甲斐さんは生存」と名簿に記入したそうだ。以後、電話は不通となった。神戸新聞とデイリースポーツはこの日、まがりなりにも京都新聞、日経印刷などの助けで新聞発行した。半年前に京都新聞と災害協定を締結したのが、早速役に立ったのだ。

この日はちょうどゴルフ関連団体の正月の名刺交換会だった。宝塚の当時日本プロゴルフ協会理事(現ツアー機構理事長)島田幸作プロは、一番の飛行機に乗るためにタクシーを呼んでいた。応接間でネクタイを締めていた。そこへ地震である。命からがら家の外へ逃げ出した。島田家はあとで全壊の査定。寝室ではベッドの枕の上に箪笥が倒れていた。寝ていたら即死であった。この幸運で現在のJGTO島田幸作理事長の活躍がある。

当時の関西プロゴルフ協会中山信宣事務局長も上京のために神戸の地下鉄に乗っていた。新神戸から新幹線に乗るためだった。地下数十メートルの地下鉄三宮駅で地震が来た。真っ暗な階段をやっと上がり、神戸の悲惨な町を見ながら十数キロ離れた西区の自宅に歩いて帰った。自宅は幸い無事だった。

高橋勝成プロは芦屋市の自宅にいた。親子三人寝ていたらグラッときた。不思議なことに、枕もとの箪笥がよじれて倒れ、怪我せずに助かった。

西宮市でゴルフ練習場を経営している中松幹雄プロは、自宅は助かったが、両親が住む母屋は倒壊、幸い両親は瓦礫の中から這い出した。練習場は三階建ての打席は崩れ落ちたが、ネットの鉄柱は倒れず、被害を最小限に食い止めた。だが、近くに住む叔父はなくなった。滋賀県のあるゴルフ場のオーナーは、たまたま芦屋の自宅に帰っていた。古いお屋敷は倒壊し亡くなられた。

関西のゴルフ場は大体が山手にあるので、ほとんどは被害を免れたが、平地の住宅街の真中にある宝塚ゴルフ倶楽部は大きな被害を受けた。所属プロの島田ら一門のプロたちが駆けつけると、山津波に襲われたようにコースは荒れ果てていた。クラブハウスは倒壊しなかったが、ひびが大きく入り、後に大掛かりな修復を必要とした。とくに新コースのインはひどく、隣りのグリーンが手前のフェアウェイに移動しているというような有様で、後に全面改修している。

震災復興に向けて心の支えになったものは

私はショックを受けて気が滅入り、精神状態もおかしかった。電気はすぐに通じたが、水道、ガスの復旧は数ヶ月もかかった。その間、自転車で水を貰いに一日に数回走るのが日課だった。知人宅に居候し、建築業者探しに懸命で、やっと応急処置を終えたのが一ヵ月後。身も心も休まる暇もなかった。

心の支えは、定年過ぎとはいえ現職のゴルフ記者だということだった。震災から三日後、徒歩四十分の甲子園口からJRが開通したので、大阪本社へ出勤した。

震災から数日後、ブリヂストンスポーツ関西販売の大橋忠夫社長が留守中の自宅に見舞い品をいろいろと届けてくれた。車も数珠繋ぎの状態で、道路事情が最悪の時で、思わず涙が出た。ゴルフジャーナリスト協会からも見舞金が贈られた。多くのプロや記者たちからも電話を貰ったが、ほとんどは通じなかった。その中で中嶋常幸プロが心配して「生きているか」と電話してくれたが、これも不思議に通じた。

復興は次第に進み、三月になった。知人宅を引き払い、自宅に帰った。家人は昼間は自宅の整理におわれた二ヶ月だった。私は女子ツアーの開幕戦ダイキンオーキッド取材のために沖縄へ出張することになった。三月二日、大阪空港から沖縄へ全日空機で飛んだ。眼下に広がる阪神間はブルーシートで屋根を覆った光景で一杯だった。

デイリースポーツの印刷体制は完全ではなかった。ツアーのスコアは別として読み物の締め切りは午後三時だった。他社は夜である。朝早くから見当をつけてふさわしい話題を探すのが仕事だった。つらい仕事だったが、これが記者としての自分を取り戻すきっかけとなった。そして生きる自信も蘇ってきた。

最終日、67を出し、6アンダーでフィニッシュしたM・マクグァイヤの優勝で終わったが、琉球カントリーのグリーンの青さが、今もなお目に焼き付いている。

最終日、67を出し、6アンダーでフィニッシュしたM・マクグァイヤの優勝で終わったが、琉球カントリーのグリーンの青さが、今もなお目に焼き付いている。

あれから10年。家族の協力で家は再建、私は現役を引退し、フリーとなった。阪神間は以前と変わらぬ復興を遂げた。中松プロの練習場も彼自身がコンクリートを運ぶなど工事を手伝い、震災後まもなく再開した。

宝塚ゴルフ場は新コースのインを島田幸作プロ設計監修、服部彰氏設計で、二年がかりで再建した。いままでの宝塚とはまったく違う近代コースとなった。宝塚は昭和初期、中期、平成初期と三つのコースが存在する。

震災直後、多くのゴルフ場はクラブハウスの浴場を一般に開放した。プロゴルファーたちもしばしばチャリティーコンペを開き、震災復興に努力した。個人でも中嶋常幸プロは試合でバーディーを獲るごとに基金を積み上げ、震災孤児の施設に寄付した。サントリーはサントリーレディースの冠に「アイ ラブ コウベ」をつけて、毎年、神戸市に寄付している。

地震には敏感になった。少し揺れても大体の震度は分かる。だが、いまなお夢を見る。自宅の雨戸がしまらない。さらにカギがかからない。不安にかられて目が覚める。

今振り返ると苦しかったが、人生の後半での大きな試練は、どん底からの人間復活という、またとない経験を私に与えた。