日本のゴルフコースにおけるグリーンは創生期より30年程は、1グリーンで統一されていた。当時のゴルフコース設計には、外国人が何らかの影響を与えていたこともあって、ゴルフコースにおけるグリーンはシングルであるなどは論議の外で当然のことであったからだ。コースを造るべき地形を求めて、今日歴史のあるコースは誕生していった。
1950年頃より急激に増加したゴルフコースは、すでにダブルグリーンシステム(いわゆる2グリーン)を疑うことなく採用していた。グリーングラスの保護管理の必要性からだった。
当時、芝草と土壌の関係は日本では数少ない学者を除いては、夏期冬期の通年のグリーングラスとしての安定は不可能とされて、サマーグリーンとウィンターグリーンの2個を持つことがベターとされ、数多くのプレーヤーを受け入れるための必要条件となった。
保肥性に富み、保水性も高く、透水性の低い土壌がグリーンのファンデーションとして用いられたための結果であったが、今日の研究や技術とは大きく異なる不幸な論理に裏打ちされたものだった。
アメリカを中心としてその後のグリーンの構造や材質に対する考え方の進歩や実験は、サンドグリーンと呼ばれる時代に入った。65年頃よりである。この68年より80年頃までの日本におけるゴルフコース倍増時代は、不幸にしてダブルグリーン最盛時代でもあった。本来の基本とされるシングルグリーンコースまでも、スペアーとして、ダブルグリーン化を進め、あるコースはメイングリーンのグラスを、高麗芝や洋芝かの違いはあれ、一部北関東以北の地域を除いては、疑いもなくダブルグリーン時代であった。
我ら設計家もこの波に乗らざるを得なかった。芝の安定と、グリーンを小さい面積にしたい等々が原因であった。シルトに代表されるような粒子の細かい土壌を中心とした、グリーングラスの育成はその後、サンディーな基礎材料を用いる事により通年良好なグリーンの育成を可能とする時代は、80年には現実なものとなり、進んだ思考のリーダーのいるゴルフコースは次々とシングルグリーンのコースに変化し、又再帰していった。一時は理想的過ぎた砂を用いる程の急速な変化となっていった。この時期より今日までにこの波に乗り遅れたコースは、未だ長い歴史を重ねるだけで、本来あるべきゴルフコースとして当然なルールとまでいえるシングルグリーン化を実現できずにいる。
いろいろな理由を上げる人々も多いが、それらを論じたくはない。何故なら国際ルールの中のゴルフコースはシングルグリーンが当たり前のことで、論ずる問題ではないからだ。
タイトな方向に攻めるような造りとか、グリーンエリアの広いのは……。などの理屈もあるが、要するに世界でゴルフゲームに用いるコースは、 グリーンは一つなのだ の一言になる。過去の不幸な時間を通過して、通年5~6万人以上のプレーヤーを受け入れる事の可能なメンテナンスを施す事は今日では当たり前になって久しい。もうこんな時代遅れの論議は、いい加減フィニッシュしたい。4502m以下のグリーンを中心としたコースとしての内容を高めて、ゴルフ先進国への坂を急ぎ昇ろうではないか。
スター達を多く生み出し、ゴルフを日常生活の中に普遍的に取り入れる時代を早く実現する為の一本道なのだから。
〈プロフィール〉
加藤 俊輔(かとう しゅんすけ) 1933年東京都生まれ。大手ゼネコンでシビルエンジニアとして活躍する傍ら、内外においてゴルフ場の設計技法を学ぶ。86年には独立、設計コースはすでに70余。日本を代表する設計家。