若いゴルファーはともかく、ベテランゴルファーにとって“ジーン・サラゼン”という人は懐かしい人である。最初のイメージはアパレルメーカーの(株)ジュンが提供していた「ジーン・サラゼン ジュンクラシック」というトーナメントのゲストとして毎年来日し、ホスト役を務めてくれた。ジュンクラは1978年より1999年まで21年間開催され、尾崎、青木、中嶋全盛期に我々を楽しませてくれた国内プロゴルフツアーの大会である。
そのG・サラゼンといえば、今われわれが使っているクラブ「サンドウェッジ」を考案した人としても有名だが、獲得メジャータイトルは7個、グランドスラムといわれる全米オープン(2回)・全米プロ(3回)・全英オープン(1回)・マスターズ(1)をひと通り制覇し、アメリカゴルフ史に燦然と輝いているレジェンドである。その人が日本と日本人に友好的な気持ちを示してくれたことに対し、日本の人々もまた大変親しみを覚えるのも当然だろう。
先日、川田太三氏(日本ゴルフコース設計者協会会長)の著「ゴルフライフ~極上の愉しみ」を読んでいたら、思わぬ驚きを発見した。それはG・サラゼンがグランドスラムを達成した後、彼と日本のゴルフ関係者が強い繋がりを持っていたこと、そして1935年グランスラムを達成するキッカケとなった「マスターズ」開催コースの15番ホール(パー5)でダブルイーグル(アルバトロス)を出したその時の4番ウッドが日本に存在していたことだ。
その経緯はこうである。G・サラゼンはグランドスラムを達成した2年後、アメリカの富豪と世界旅行に出掛けていて、当時日本のJGA役員だった石井光次郎(戦後政治家として活躍)と会ったという。その折に記念としてアルバトロスを出した4番ウッドをプレゼントされた。その後石井はJGAの会長を務めている。ゴルフの腕前はシングルであったという。彼はG・サラゼンのクラブをどうしても使いたいと思い、グリップを自分用の素材に変えてプレーしたようだ。
JGAゴルフミュージアム(1979年開館)といえば廣野ゴルフクラブの一角に2000点もの展示品を揃え、世界で三番目の規模という。この展示場に石井より寄贈されて、G・サラゼンのあの4番ウッドが展示されていた。このクラブについて、G・サラゼンは「間違いなくプレゼントした」と証言をしているが、その後複雑になったのは、彼が「私のクラブのグリップはそのようなものではなかったはず」とコメントしてから真偽論争が巻き起こった。
この一件、G・サラゼンとその家族の証言で、日本にあるものが「本物」ということで落着したが、本人の証言がなければ偽物呼ばわりされ続けていたかもしれないと田川氏はいう。そこでJGAでは、「このクラブは本来あるべきところにあるのが自然であろう」という意見が出て、早速オーガスタ・ナショナルGCに手紙を出したところ、「受け入れます」という返事がきた。その運搬役を川田太三氏が担ったのだという。
2000年の「マスターズ」開催の初日、木曜日にこの贈り物を大歓迎で受け入れてくれたそうで、氏曰く「大騒ぎというより、厳粛な感じの受け入れだったことに、この4番ウッドがもたらしたマスターズでの史実の重さが感じられた」と書いている。ミレニアムというからJ・サラゼンが亡くなった翌年に当たる。
オーガスタのクラブハウスには、G・サラゼンから手渡された4番ウッドと日本からの贈り物の4番ウッドが入り口の左右に飾られた。G・サラゼンと日本、そしてオーガスタ・ナショナルクラブが、より近い存在であることを改めて認識した次第である。これから「マスターズ」に出掛けられる方はぜひとも、2つの4番ウッドをご覧になることをお勧めしたい。
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