1ヶ月3万円で決心「お金のため」プロに プロゴルフ今昔物語~杉原輝雄編【1】

【2015年7月29日にデイリースポーツに掲載された記事を引用】

今週からは、デイリースポーツなどでゴルフ記者として50年間、プロゴルフ界を見続けてきた甲斐誠三氏(82)が、豊富な人脈と取材メモからとっておきの裏話を披露します。第一回は特に親交が深かった故杉原輝雄プロ編です。

意外にしゃべる

杉原にプロになった動機を聞いたことがある。「そりゃ、お金のためやがな」。大阪・茨木市の農家で生まれた杉原は小さい時から家計が苦しいことをよく知っていた。小学生の時に茨木カンツリー倶楽部でアルバイトをしていて、プロになれば、1ヶ月に3万円も稼ぐことができると聞いていた。「よし、オレもプロになろう!」と、決心した。

茨木カンツリーのクラブハウスへと上がっていく小道の左側に広大な練習場がある。20歳でプロ入りした杉原は早朝から深夜まで倶楽部が許す限りボールを打っていた。後輩の宮本省三がいつも一緒で、お互いにけん制し合って、なかなか帰れなかった。

1962年に千葉で行われた日本オープンでプロ初優勝を手にした杉原は順調なプロ生活を続けていった。

杉原家ではデイリースポーツを宅配で取っていたので、時折、紙面の企画に登場してもらった。普段の杉原は実に寡黙で必要なこと以外は何もしゃべらない。もちろん、こちらの質問にはきちんと答えてくれるのだが。

ある日、サンテレビの大阪支社長が私のところにやってきて「ゴルフのレッスン番組を企画しているのだが、だれかいいプロに頼めないか」と聞いてきた。その頃、テレビでは東京で「小松原三夫のゴルフ道場」という番組が一つあるだけだった。私は「ちゃんとしゃべれるかな」と思いながらも「杉原に話してみよう」と答えた。当時、関西の実力派若手プロとして人気は抜群だったからである。

1970年代に入ってから、杉原の番組は大ヒットした。こちらの心配をよそに、丁寧にレッスンし、よくしゃべるので、番組に登場したアマチュアゴルファーたちの評判も良く、視聴率も上がった。人気俳優の藤田まこととも競演し、話題を呼んだ。

その間も杉原は本業のプロトーナメントでも次々と成果を上げていった。(つづく)

<WHO‘S WHO>杉原輝雄(すぎはら・てるお)1937年6月14日、大阪府茨木市出身。1957年にプロ入りし、通算63勝(海外1勝。シニア8勝を含む)を挙げる。2011年12月28日に前立腺がんのため死去。