3月24日のことなので、もう旧聞に属することと違和感をもたれる方もいるかもしれない。
おめでたいゴルフ殿堂入りの話なのにどうしても書くことを躊躇せざるをえなかった。第五回日本プロゴルフ殿堂入りの式典は、ジャパンゴルフフェア(パシフィコ横浜)の1階展示ホールで行われた。レジェンド部門で顕彰された清元登子(たかこ)さん(1939年生まれ、77歳)は、2009年に脳梗塞で倒れ、現在も闘病中だ。姉とその夫が代わって表彰を受けた。その顕彰に対する言葉で、清元さんが今も深刻な状態で言葉も発することができないほどの重篤な状態にあるということを隠さずに告げた。
筆者は06年4月、日本経済新聞の夕刊の「駆ける魂」というスポーツ面のコラムで7回わたって清元さん(当時、日本女子プロゴルフ協会副会長)を連載した。不動裕理、大山志保、古閑美穂(全員が賞金女王)ら超一流プロを次々と育てた名伯楽。その秘密と清元プロの人の歴史に焦点を当てたものだ。歯に衣着せぬ舌鋒鋭い物言いで誤解も受けたが、その裏には選手に対する深い愛情が横たわっているのがよく分かった。熊本から東京にやってくる機会をとらえて取材の時間を作ってもらった。終わると自然と飲みに行くことになった。その酒の強さといったら、いくら飲んでも乱れることなく焼酎、日本酒は吸い込まれていった。こちらは付いていくの精一杯だ。清元さんはどんなに遅くまで飲んでも必ず早起きして散歩に出ることをやめなかった。熊本でも一緒に飲んだ。体力もあったのだろう。過信した部分もあったかもしれない。
幼馴染の銀行員に誘われて24歳で初めて練習場でゴルフクラブを握った。3番アイアンしかなかったが、振り回すとそれがおもしろいようにビュンビュン飛んだのだという。小柄な家族でも一人だけ5人姉妹兄弟で群を抜いて大きな体だった。たちまちゴルフの魅力に憑かれ、すさまじい練習量で半年で30台のスコア、1年でシングルになった。1969年、念願の日本女子アマのタイトルをとる。するとさっさと熊本に帰って、自宅の清元ビル(九州で初の高級紳士服を営む老舗)の地下で喫茶店、3階で雀荘を経営、繁盛した。この人の人生に屈託はない。運動不足からまた練習を始めるとたちまち本気になり、繁盛店も人に任せ再びゴルフに戻り、2年間のブランクもなんのその72、73年の日本女子アマを連覇してしまう。
男勝りの長打で女子では敵なし。このころついた異名が「女武蔵」だった。日本アマ連覇の11月、国際女子オープンのトヨトミレディースで世界の強豪や樋口久子らをまとめてアマの清元さんが撃破してしまう。プロになったのは34歳というのも異例の経歴。プロで国内4勝すると15歳年下の涂阿玉(台湾)と米国に渡り、武者修行。きしくも今回の殿堂入りで涂さんもプレーヤー部門で表彰され、「トヨトミ」の関係者がお祝いの言葉を寄せた。米国ではボルチモアクラシックで2位に入るなど優勝まであと一歩と迫る。これに刺激されるように樋口久子が翌月の全米女子プロでメジャー初制覇を成し遂げた。
樋口と6歳上の清元が壮絶な戦いを繰り広げた78年の日本女子オープン(群馬・ローズベイCC)は今も語り草だ。プレーオフの激闘の末、清元が4ホール目で振り切った。清元は、プロとアマの最高峰の日本オープンを制すると、またさらりと競技人生に別れを告げる決心をする。協会の会長職も務めたが、心は次の世代につなぐ子供たちから離れなかった。66歳、世界最強プロのアニカ・ソレンスタムの師であるピア・ニールソンが創設に加わった「ザ・ファースト・ティー」という最近ようやく認識されてきたゴルフのジュニア教育・育成プログラムに魅了された。清元さんは、こう私に言い切った。「今から私の人生は始まる。今までやったことは、次の舞台に行く肥やしですよ。やっと自分の最終舞台に来たんじゃないの」と。
それから3年で病に倒れる。電話にもファクシミリもまったく応答がなかった。夢舞台がすぐそこにありながら声も出せない状況でどんなにか長い時間、苦しんで悔しい思いをしてきたかと考えると--。華やかな式典の隅でご家族にお願いした。「あきらめないで、絶対に戻って来てください」と。「伝えます。大丈夫だと思います」という言葉に少し救われた気がした。
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