【芥川賞作家・高橋三千綱さんを偲ぶ】
このインタビューが、外に向けての「最後の肉声」となってしまったことに、複雑な思いが込み上げてきた。書ききれなかったことが多いのである。記事が掲載されたのは、13日後の6月4日から、11日、18日、25日の各金曜日に発売された日刊ゲンダイのゴルフ面。1300字程度の原稿だから、すべて合わせても5200字程度。紙数に限りがあり、2時間半の内容のすべてを掲載することは、かなわなかった。
私が高橋さんに初めてお会いしたのは、1986年5月28日。大洗ゴルフ倶楽部(茨城)で行われた三菱ギャラントーナメント(現アジアパシフィックダイヤモンドカップ)のプレスルームだった。開幕前日の練習日であったため、人影もまばら。高橋さんは編集者と打ち合わせ中だったが、私が東京スポーツのゴルフ担当(当時)であることを伝えながら挨拶すると、まるで旧知の友人のように打ち解けて話してくれた。
東スポOBである高橋さんの存在は職場の先輩からもよく聞かされていた、文化部の記者として連載を執筆する傍ら、同僚たちには内緒で小説を書いていて、群像新人賞を受賞。表彰式には会社から向かったという伝説の人だ。当時私はパパイアインジェクション(パパイア酵素を幹部に注入する治療)を選択して引退のピンチから脱出した岡本綾子が復活優勝を飾ったエリザベス・アーデンの大会取材から戻ったばかり。そんな話をするうちに「君を漫画の登場人物のモデルにしていいか?」と問われ、会社のOKをもらったのを覚えている。
後日「アルバ読んだ?大東京スポーツの小川ってキャラクターで出てるから」と言われてみてみると、あんまりパッとしない役回りでちょっと不満だったが、文句を言うわけにもいかず成り行きに任せていた。その後も年末のコンペなどで何度か酒席もご一緒させていただいた。
初期の「東スポWEB」の立ち上げに携わった時には、無理を言って登場いただいたこともあった。八王子のゴルフ場で久しぶりにお会いした際「お元気ですか?」と声をかけるとニコニコしながらでできた答えが「うん、肝硬変」。「え?」と問い返すと「でも、大丈夫だから」と朝から熱燗をうまそうに飲んでいた。そのやりとりを「お元気ですか?」「うん、肝硬変」というタイトルで「東スポWEB」に掲載させていただいた。
実はこの時、余命4カ月を宣告されていたが、高橋さんは奇跡を起こす。肝硬変を克服し、糖尿病、食道がん、胃がんなど、次々に試練に見舞われたが、それから11年間、ゴルフやお酒を楽しんでいる姿を何度も目にした。
4カ月の余命宣告を受けながら11年も余命を延ばした原動力は何だったのか。高橋さんは即座にこう答えた。「病気を忘れちゃうことですよ。女性もそうだけど、忘れられちゃうと、自然にいなくなる。がんも突然できたものだから、消える時も突然ですよ」。
楽天的にものを考え、楽しく生きる。そういう生き方が免疫力を高め、時として奇跡を起こす。だがそれは簡単なことではない。今の告知の仕方が、果たして患者ファーストなのか。疑問に思う方は、多いのではないか。
インタビューで、余命宣告はすべきか否かを聞いた。その答えは「しない方がいいと思う。告知されるのは、本当に嫌なものですよ。ここまでハッキリ言うのか、とも思いましたし『俺、死ぬのか』と、落ち込みますしね」というもの。楽天家を自任する高橋さんでさえ、そうなのだ。私はこの時心に決めた。余命宣告は、いらない。医者が勝手に予測する、自分の死期なんかどうでもいい。高橋さんだけでなく、余命宣告を受けてから長生きした例は枚挙にいとまがないではないか。知らない方が、明るく生きられる。その時が来たら、寿命だと受け入れるつもりだ。
奇跡の連続だった73年の人生で、芥川賞受賞作の「九月の空」をはじめ、多くの作品を世に送り出した高橋さんは、映画のプロデュースで多額の借金を負った後、サンディエゴ郊外のカールスバッドに住み米ツアーの開幕戦「トーナメント・オブ・チャンピオンズ(TOC)」の開催コースであるラ・コスタカントリークラブのメンバーとなる。
TOCのプロアマ戦にも出て、フィル・ミケルソンら多くの有名プロとラウンドし、サウナでトム・ワトソンと談笑していたらタイガー・ウッズも来て裸の付き合いをしたエピソードも。そのうちにゴルフ関連著作物を小説だけでなく、ゴルフ漫画原作者の立場でも量産していく。
「映画の失敗で仕事がなくなって、アメリカに行ってゴルフ三昧の日々を送っているうちに、ゴルフの仕事が増えていった」。冒頭の「ゴルフに救われた感じですね」という言葉は、そうした話の流れから出たものだ。
入退院を繰り返していたが5月6日に退院後、高橋さんは最後の日まで、妻の和子さん、ロサンゼルスからお孫さんを連れて帰国中の愛娘・奈里さんとともに東京都八王子市の自宅で過ごした。インタビューの日から3カ月にも満たない8月17日午後2時25分、「眠るように」(姉の三千子さんの話)息を引き取られたとのことだった。73歳だった。奈里さんは葬儀を終えるとすぐに高橋さんのフェイスブックで亡くなったことと、生前お世話になった方々にお礼のメッセージを書き込んでいる。
翌日に連絡をいただき、インタビューでは撮影を担当した妻の淳子、親交の深かったプロゴルファーのタケ小山氏とともに、ご遺体と対面させていただいた。最後の闘病生活を送った2階の寝室で高橋さんは眠っていた。その脇には、体調がよくなると執筆に向かった書斎がある。最後まで、書く姿勢をやめなかった高橋さん。柔らかな自然光が差し込む部屋で、実に安らかな寝顔をしていた。
インタビューで書ききれなかった話の一つに、小山氏とのエピソードもあった。「彼は妻(和子さん)がレッスンに通っていた八王子のゴルフ練習場の先生でした。アメリカに行きたいというのでタイトリストジャパンの社長(渡邊一美さん、元日本プロゴルフツアー機構専務理事)を紹介したんです」と語っていた。
アメリカへの挑戦願望が強かった小山氏は、高橋さん原作の「Dr.タイフーン」の愛読者でもあった。主人公はアメリカから舞い戻り、プロのツアーで大活躍する。小学生時代から子役として活躍し家計を助け、高校時代はアメリカンスクールに通い英語を身に付けサンフランシスコ州立大に入学した高橋さんから背中を押された小山さんは、1989年に渡米。その際、高橋さんと渡邊氏がワーキングビザ申請に必要な保証人にもなっている。
小山氏は当時、スポーツ振興が保有していたフロリダのグレンリーフリゾートに住み込み、タイトリストから用品支給のサポートを受けながらミニツアーや米ツアーのマンデートーナメントに挑戦。米ツアーのドラール・オープンにも出場している。
親交はその後も35年にわたり続いていて、小山氏はコロナ禍でなければ、葬儀委員長を務めるはずだった。「7月末に『ハチカン(高橋さんがメンバーだった八王子カントリークラブ)を退会した。俺のバッグを自宅へ届けてくれるか?』とミッチーさんから連絡があり、ご自宅へバッグを届け、少しお話しとお顔を見ることができました。ラッキーでした、私は。最後まで出来の悪い私を可愛がってくれました」と語ってから、肩を落としてため息をついた。「寂しいですね…」。
時節柄葬儀は、8月22日、家族によって営まれた。筆者は姉の三千子さんから依頼され、翌23日に共同通信社と時事通信社には配信の参考にしてもらうための訃報を送った。記事は全国津々浦々まで届き、岡崎市図書館(愛知)流山市森の図書館(千葉)尼崎市中央図書館(兵庫)など各地の図書館で、高橋さんの追悼コーナーが設けられた。新聞記者出身を感じさせるリズミカルで読みやすく、心に染み入ってくる文章は、多くのファンを生んでいた。私もその一人だ。
闘病生活中に仕事を受けてくれたのは、ゴルフをテーマに絞り込んだインタビューであり、私が東スポの後輩であったからこそであったのだと、高橋さんには感謝してもしきれない。
書ききれなかった最後のインタビュー。「九月の空」を見上げて、高橋さんを偲ぶことができるうちに読んでいただきたい。そう思わずには、いられなかった。
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【共同通信・時事通信にお送りした訃報の内容】
(たかはし みちつな)
1948年、大阪府生まれ。東京スポーツ新聞社在職中に小説を執筆、1975年に「退屈しのぎ」で群像新人賞を受賞。退職し作家業に専念し1978年に「九月の空」で第79回芥川賞を受賞した。1982年、十二指腸潰瘍が悪化し手術。体力回復のためゴルフを始め、シングルプレーヤーに。ゴルフ関連の著作も多い。11年前に肝硬変で余命4カ月を宣告されたが、その後ゴルフを楽しめるまで回復していた。
プロフィール – 高橋三千綱ホームページ (dgdg.jp)
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